倉知金太郎饅頭復活の道のり


倉知家の二代目祖父の名前は倉知金太郎!!

二代目祖父は幕末時代に、愛知県犬山町と岐阜県各務原市鵜沼の間にある木曽川において、岐阜県側から橋渡しでお越しになるお侍に、金太郎饅頭を販売していた!!

孫の私は祖母から何度もその話を聞いていました。いつしか、復活出来たら良いのに!!と考え始めました!しかし!かなり古い話で、レシピも残っていない状態でした。

諦めていた時!!何と!!金太郎饅頭を食べた事がある人に出会いました!!

奇跡が起こりました!!

2012年6月頃に愛知県丹羽郡大口町余野に住んでみえるお母さんにお会いしました。世間話をしていた時に、何故か私の通っていた犬山北小学校の話になり、ちょうど、私の三代目祖父も犬山北小学校の先生をしていたので、話が弾み楽しく話していた時、急に!!金太郎饅頭の事が頭に過り、もしかしたら!!との思いでお母さんに尋ねてみました。

何と!!!

当時、金太郎饅頭を来賓客用に注文していた!!と言われました!!!

このお母さんは、何と犬山北小学校の先生をされていました!!

当時の事を詳しく聞きました!!

学校に通っていた時、電話で倉知金太郎饅頭を注文していて、注文すると直ぐに自転車で持って来てくれると言っていました。鉞担いだ金太郎の金の文字の赤い前掛けをして、自転車に乗って配達をしていたと言っていました。当時「きんちゃん」と言うあだ名で人気だったそうです。きんちゃん饅頭は、犬山市で一番おいしいお饅頭だった!!と言われました!!私はかなり感動しました!!!

犬山市で金太郎饅頭が1番と言われた理由


当時もお饅頭屋が他にもあったと思いますが、他のお饅頭屋は1日置いておくと御饅頭事態がカチカチになって食べれないと言われました。しかし!!倉知金太郎饅頭は5日置いておいても堅くならずに美味しく食べれた!!と教えてくださいました。なので、大切な来賓の方が見えるときは必ず倉知金太郎饅頭を出していたと言われました。

話の続き

倉知金太郎饅頭ですが、当時かなり高額な御饅頭で一般の市民は買えなかったと言われました!!なので!!犬山北小学校で余った金太郎饅頭ですが、8等分位にして先生達で食べたと言われました。

倉知金太郎饅頭知っている方がもう1人


2018年に岐阜県下呂市金山町のお母さんと出会い、話していたら、倉知金太郎饅頭の話が出た!!びっくり!!この方も教員をされていて、当時犬山見学をしに行かれたみたいで、犬山城に登ろうと城内の砂利道を歩かれていた時に、何と!!城内で倉知金太郎饅頭が販売されていたのを見た!!と言われました!金額はかなり高く、教員の給料でも買えないと言ってみえました。

饅頭復活の道のり

愛知県丹羽郡大口町余野のお母さんから、味、形、大きさ等全部教えて頂き、復活に向けて動き出しました。

自分では饅頭を作る経験が無い事から、知り合いを片っ端から当たり、試作品を作ってもらえないかお願いしに回りました。殆どの方は出来ない!と、お断りされました。数名の方は試作品を作って下さいました。すごく有り難かったです。

しかし!!

御饅頭の皮や餡子がどうにも難しくて、苦戦!!

かなり沢山の人に聞いて回りましたが、完成しませんでした。

世界中がコロナになり自粛している時、ふと思い、知り合いに連絡してみました。色々と話をしていた時、急に饅頭が出来るかも!!と思い、知り合いに、幕末時代の先祖の倉知金太郎饅頭の話をして、御饅頭の試作品を作ってくれそうな御饅頭屋さんの知り合いはないですか?と聞いてみました。

何と!!!

良い人がいる!!と言って下さいました!!私はわくわくして興奮しました!!ついに饅頭が出来るかも!!と思い、紹介して下さい。と頼みました。トントン拍子に事が進み、遂に、御饅頭屋さんにお願いする日が来ました。当日は、どうやって頼もうか2人でかなり考えました。何故なら、今まで御饅頭屋に聞きに行くと、自分で作れとか、教えてくれない所が多かったからです。

御饅頭屋さんへお願い


かなり緊張して岐阜県可児市にある御饅頭屋さんに聞きに行きました。初めは世間話から、徐々に本題に!!まずは、職人では無く、職人の奥様に話しました。そしたら、気さくに、お父さん作ってくれるよ!!と言われました!!本当に!!と思いましたが、奥様が言われるので大丈夫と思い、職人の旦那様を呼んでもらいました。

職人の旦那様にこれまでの事を詳しく話しました!

そしたら!!何と!!!

そう言う素晴らしい物は自分で作れ!!と言われました!!続いて、二言目に!!家に修行しに来い!!!と仰って下さいました!!超感動!!!

弟子になりました!!

何回か通い、厨房で作り方を初めから教えて下さいました!!餡子の炊き方、皮の粉分量、包み方等すべて教えて下さいました。
 
世の中、こんなに良い人がいるのかと感謝しています。 

よって、孫の6代目、倉知克行はお饅頭屋で修行しましたので
倉知金太郎饅頭を犬山市城下町で復活いたします。

復活までに10年掛かりました。

すべての方に感謝致します。




倉知金太郎饅頭を教えてくださいました大口町余野のお母さんに会いに行ってきました。

8月1日、午後15時頃、御饅頭の事を教えてくださいました大口町余野のお母さんに、
御饅頭を持って会いに行ってきました。

当時の御饅頭はこれで良いか尋ねた所、こんな感じで良い!!と言われました。
良かったです!!
ただし、御饅頭の焼き印は、当時、手書きで金と書かれていて、字がバラバラだったと言われました。
今は、進歩しているので焼き印は手書きでは無くても良いのでは!!と言って下さいましたので、良かったです!!

当時、御饅頭を買っていた場所を聞いた所、犬山北小学校の南門から南に5軒位進んだ所に、右に入る道があり、進んでみると、自転車が1台通れるか通れないかの道がある!と言われました。

そこで御饅頭を売っていたと言われました!!


下の所で販売していたみたいです。

御饅頭を買いに来てくださいましたお客様で、金太郎饅頭を販売していた場所を知ってみえる犬山市の方がみえました!!!

聞いた所、大口町余野のお母さんが言っていた所と同じでした!!!

嬉しかったです。


倉知金太郎饅頭の文献を探してみました。


犬山市文化資料館に行き、文献を調べてみましたが、お酒や、
鮎の文献は出てきましたが、和菓子の分野はまったく載っていませんでした。

文化資料館の方は、当時、饅頭で騒動がおきいていた場合は、
文献として資料が残っていると言われました!!!

次に!!!!

名古屋市徳川美術館横にある蓬左文庫に問い合わせを致しました。

回答は、倉知、饅頭、金太郎等、一切載っていないとの回答。


 
名古屋市の蓬左文庫の方から、犬山市の図書館で、
郷土資料や郷土料理クラブ等を調べてみてはどうかと教えて頂きました。

犬山市図書館に行ってきました!!

図書館の職員の方にお話をして、探して頂きましたが!!

やはり!!!!

お酒、瓦、鮎、刀鍛治等しか出てきませんでした。
和菓子は出てきませんでした。



倉知金太郎饅頭を食べた方が!!

2人目の方が現れました!!!

2024年8月9日(金)
以前同じ町内に住んでいた方がお店にお越しくださいました!!
お話を聞くと、当時、5軒程自宅を持っていて、
名古屋で有名な和菓子屋のご子息!!(大竹さん)

小学生の頃、母親が倉知金太郎饅頭をおやつとして買って食べていたみたいです。
御饅頭は、町内の人は皆買って食べていたのですか?
と、質問しました!!
そしたら!!
高額な御饅頭な為、当時は、お金持ちの家だけしか買えないと言っておられました。
裕福な家だった為、御饅頭が食べれたと言われました!!

私が付けている金の前掛け(エプロン)を見て、
懐かしいね!!と言って下さいました!!

お饅頭を見るなり、懐かしと言われ、
形や色、焼き印も同じと仰って下さいました!!!

1つだけ違っている事がわかりました!!
それは
味です!!!
当時の御饅頭より今の御饅頭の方が美味しい!!
と言われました!!
私は、昔の味に戻した方が良いですか?
と質問しましたが!!
今の方が美味しいのでこのままで良いよと言って下さいました!!!
とても嬉しかったです。

倉知金太郎の歴史&倉知金太郎饅頭

倉知家は江戸時代から続く家柄であり、先祖からの良い伝えによれば、初代倉知民平は百姓をしていて、農業を営んでいたそうだ。民兵の妻の名前は不明、息子は倉知金太郎。金太郎は(なつ)と結婚。金太郎は、父親民平から砂糖の存在を聞いた。金太郎と(なつ)は、砂糖を求め四国八十八ヶ所を徒歩で参拝して回った。当時、琉球王国からサトウキビを四国地方に輸出していた関係もあり、幕府が黒糖、白糖、和三盆を製造させていた。金太郎は、四国八十八ヶ所を参拝した際に、お接待を受けた。お接待を受けるたびに、サトウキビ、黒糖、和三盆の事を聞いていた。遂に、サトウキビの苗木を入手した。更には、砂糖生成の仕方も教えてもらった。サトウキビを犬山の自宅に持ち帰った金太郎は、庭にサトウキビを植え栽培した。当時、犬山城の坂下にある材木町に自宅を構えていた。そこで、金太郎はサトウキビから黒糖、和三盆糖を生成した。金太郎は、黒糖を饅頭に練り込み販売することにした。これが、倉知金太郎饅頭の始まりだ。当時、高価で贅沢品な饅頭は、庶民には手が出せなかった。その為、金太郎は、岐阜県側から船で渡ってくるお侍に金太郎饅頭を売った。黒糖が入った饅頭は、たちまちに犬山城下町に噂が広がった。すぐさま、犬山城主(成瀬正肥)からお呼びがかかる。金太郎は、饅頭を持って献上しに行く。しかし、黒糖の生産が少量で、殿の満足する数を揃えれなかった。殿は、饅頭を気に入り、更には、黒糖、和三盆を生成させるよう命じた。しかし、金太郎の自宅は狭いので増やせない。そこで、成瀬正肥に提案をした。大きな土地をくだされば、沢山黒糖、和三盆を作れます。当時、犬山では、砂糖を作れる物は倉知金太郎だけであった為、お城の近くにある土地1000坪を殿様から貰った。その土地で、サトウキビを栽培。黒糖、和三盆を生成。お饅頭の評判も良く、倉知金太郎饅頭は、犬山城のおやつタイムに配られる事になった。名古屋城から犬山城にお手伝いに来ていた物が、名古屋城主に報告をした。犬山城の上司である名古屋城にも知れ渡り、名古屋の街でも人気を博した。当時は、名古屋城からお手伝いが来ていたので、金太郎饅頭は、その方が馬で名古屋城まで運んだ。犬山城主から犬山城下町の地主を命じられ、沢山の山、林、竹林、土地、田圃を貰った。さらには、木曽川の船渡しの管理を命じられた。その頃には、船で饅頭、黒糖、和三盆を名古屋城に運んでいた。金太郎は、犬山城手からの絶大な信頼があった為、庭に深い井戸を掘らせ、万が一の時の逃げ道を作らせた。犬山城と自宅の井戸は繋がっている。自宅の屋根裏を修理した時に、徳川家の日本刀が出てきた。当時、調査の為回収された。多分何処かの資料館に展示されている。お城で事件が起こり、井戸の地下道を通り、倉知家の庭から出て、刀を持ち、船で逃がすと言う役割を金太郎は命じられていた。幸いにも、1度も使う事がなかった為、屋根裏から徳川家の日本刀が出てきた。その頃、色々と命じられ忙しい金太郎は、弟子に金太郎饅頭を作らせて販売させていた。金太郎は、1000坪の土地を使い、貸家業を営んだ。当時、上大本町は花街であった為、置屋に貸していた。春駒(はるこま)と言う店の名前だった。自宅前は、子猫(こねこ)だそうだ。歳を取った金太郎は、最後は、家賃を回収する仕事をしていたそうだ。1952年頃、金太郎の弟子である人が、常満寺の横で(えのけんさん)と言う人が倉知金太郎饅頭を販売していた。当時、終戦間近だった為、看板も無ければ、鉄の焼印も無く、密かに販売していた。その為、知る人ぞ知る幻の倉知金太郎饅頭になってしまった。終戦後には、物資が入手出来ず店は消滅した。